シロート考え






学習曲線は階段状

 楽器の練習のことで思い出すのは「悪魔のトライアングル」ともう一つは、高校の時の吹奏楽部の顧問、M先生の話だ。以下、まさに受け売りだが。

 楽器でも勉強でも、練習(勉強)すれば、必ずその成果は現れる。でもそれは、こちらが思うような形ではない。
 つい、我々は勉強すればするだけすぐ成果が現れるように、つまり勉強時間とその成果が比例するように期待してしまう。実際は比例するのではなく、グラフで言うと階段状にのびるんだね。(左図参照)
 勉強してもすぐには結果が出ない。どうしてわかんないんだろう、と思う頃に、ひょいっと伸びる。わかったと思うと、またわからなくなる。ひょいっ。あ、なんだ、こんな簡単なことか、と思う。またわからなくなる。だめだ、おれって、本質的にはばかだ。ひょいっ。なんだよ、簡単じゃん、おれって天才?わかんないよ、こんなの無理。ひょいっ。なんだよ、わかったわかった。早く言ってよ。
 ましてや、だんだん進歩していけば行くほど、階段のとどまっている時間が長くなるし、下手すると落ちてるように感じられる。(これがスランプと言うやつだ。)君らはこの、わからない、上手くならない、と言う状態に耐えなければならない。潜在的にはやればやっただけのことは必ず身についていくのだ。

 いたいけな少年だった僕は、いたく感動しました。
 タモリはトランペット買ってきて、その日のうちにマイルス・デイヴィスのように吹けないのが耐えられない、なんて言っていて、まったくだまったくだ、と思う。
 それでも「楽器演奏のこつは、短期的にはすぐあきらめる。でも長期的にはあきらめないということだ」と、今でも思っております。
                               
(2004/11/29)





会議には「自分の意見を変える覚悟」で臨まなければならない

 しごく当たり前のことなのだけれど、およそ会議というものは、参加者が「より良い意見を聞いたら、自分の意見を変えてもいい」という覚悟というか用意をしていかなければ、意味がない。
 逆に、国会の議論がいつもすれ違いなのも当然で、どちらも自分(達)の意見を変えようなんて気はさらさらなくて、自分の意見をただ開陳するだけだ。あれは議論とは言えない。
 特別ひどいのが、小泉と石原で、まったく話にならない。他人の意見を聞くどころか、説得力のあるきちんとした主張をしようと言う気もない。小泉の「自衛隊は非戦闘地域に派遣する。」そして、「非戦闘地域とは自衛隊の派遣されている場所のことだ。」=「白とはおれが白く見える色のことだ」は民主主義の根底を否定する最悪の言葉だと思う。

 我が身に振りかえって、身近な会議で、上司や会長とかに、最初から全てをわかっていて、最初から正しい判断をしている、と言う状態を期待してしまう。「良い独裁者」を期待してしまっているのだ。
 だが、それなら会議など無用だ。
 良い会議参加者とは、他人の意見をきちんと聞くことができ、自分の意見をきちんと論理的に変えることが出来る人なのだ。
 会議に出す原案も同じ。良い原案とは「正しい結論」ではない。原案を作るに当たって、何を決めなければならないのか、様々な周りの状況、判断材料、原案や考えられる対案のメリットデメリット、考えられる周りの状況への影響、それらが会議参加者にわかりやすくまとめてある、それこそがよい原案(会議資料、説明)であるし、参加者はその資料に基づいて議論し、よりよい結論にたどり着くべきなのだ。

 マスコミにも同じ事を言いたい。前に書いたけど「政治三面記事」はいらない。読者がよりよい判断を出来るような「材料」を提供して欲しい。
 
(2005/1/30)





君は紙魚(しみ)を見たか?

 ここが集合住宅の2階だからなのか、ほとんどゴキブリを見ない。
 そういえば、引っ越してきた当初、紙魚(しみ)をよく見た。最初は、朝起きると畳の上をとても変な虫がにょろにょろと動いているのだ。気持ち悪かった。なんなのかわからなくて、にょろにょろ虫、なんだろうねえ、と話していたものだ。図書館の司書さんが優秀で、これこれこうだと話すと割とすぐ見つけてくれたんだっけ。ヤマトシミ。当時苦労して捕まえて撮った写真。2004/11/20





株に関するシロート考え

 工場制手工業(マニュファクチャーってむかーし習ったなあ)とか大量生産とか、そう言う時代になって、莫大な金(資産)がなければ事業が出来ない。ごく一部の資産家だけが事業主となれて、多くの労働者から搾取した。大金持ちはほんの一握りしかいないからね。
 大金持ちでなくてもみんなが少しずつ金を出し合おうって言うのが株という物なのだろう。

 たとえば1万人が10万円ずつ出し合って10億円の金で会社を作って(10億円分の株式の発行)、そして15億円儲かった。最初の10億円分は社屋や設備や金だったりするだろう、みんなが出し合った10億円分の資産というか、元手というか、そう言う物だ。4億円分適正な給料を労働者に払うと1億円ほんとうに純益、もうけが出た。
 このもうけはだれのものなんだろう?「会社」のものなのか?株主のものなのか?働いた人たちは週40時間いくらで契約して働いた分は支払われているのだから、もうけは何の関係もないのか。
 1億円のもうけは、労働者に本当の意味でボーナスとして、そして一部は「配当」として株主に還元して、会社の資産は10億円分にしておくべきなのだ。
 もちろん儲からないことも、会社がつぶれてしまうリスクもある。だから、儲かったら10万円ずつ出した人には「いろ」をつけて返すのは当然だとは思う。だが、基本的に金を持っているから、あるいは金を出したから儲かるなんて不健全だ。金は働いて儲けるべきなのだ。

 現実の社会は、特に日本は、これとはまったく別の仕組みになっているようだ。さっきの1億円は「会社」のものにして、だからみんなで10億円出して作った会社なのに11億円の価値にしてしまう、だから株の額面が総額10億円分なのに、11億円分の価値になってしまう。現実には会社の資産価値よりさらにずっと高い株価が付いてるようではないか、そうだとしたら、そんなの全て「バブル」だ。
 これが、僕に言わせれば諸悪の根元なのだ。くり返すけれど、10億円の会社は10億円のままにして置くべきで、規模を大きくするなら、更に株式を発行して株の額面分だけの金をみんなで出し合えばいい。
(2006.01.23)






運転が下手なやつが多すぎる

 日頃自動車を運転していて、あるいは自転車に乗ったり歩いたりしていて、ともかく運転の下手なのが多すぎる。
 運転のうまい下手はべつにスピードが出せるとか、そう言うこととはまったく関係ない。車線をきちんと守れないやつがすごく多い。右折でも左折でも切り込んで来る。やっと2車線の細い道、左カーブ(向こうから見て右カーブ)で対向車線が切り込んで来る。左カーブで脱輪している。あきれかえる。この道でこのカーブなら40km/hは出 せないはずなのだ。こういうやつらのことをへたくそと言うのだ。
 細い道の一時停止で停止線を守れない。ぎりぎりまでスピードを落とさないから、自転車や歩行者を恐れさせるのだ。
 自転車もひどい。自転車は左側通行なのだ。小学校、あるいは国民学校、尋常小学校でで習わなかったのか?法規を守らないやつはうちにいて一歩も出るな。交差点でそんなギリギリまで出て来るな。邪魔でしょうがない。
(2006.4)








大相撲雑感

 相撲は好きだ。ほとんど止まっているので、テレビを見ながら笛を吹き、いよいよ時間いっぱいになったら、見る。チェロはうちが狭いせいか、だめで、やっぱり笛が良い。

 日本では、ほとんど止まってるスポーツばかりだ。相撲、野球、ゴルフ…。これは日本の伝統で、踊りなども運動性はなくて、美しく見える「型」をつなげているだけだ。日本のサッカーやアイスホッケーは永久に強くならないに違いない。

 だが少なくとも相撲には、型の中に型にはまらない、なんていうか、瞬時の臨機応変、即興や技、矛盾するようだが、そんなの関係ない腕力やら体重、そういった勝負だけに向けたベクトルみたいなものがある。おもしろい。

 NHKはなにしろ13時くらいから中継しているのがすごい。もちろんあまり観やあしないけれど、たまに観ると実に面白い。昼過ぎに出てくるのは相撲取りも行司も下っ端らしく、さがりはだらだらしてるし、行司はすね出して、はだしだ。相撲は当然ながら階級社会なんだなあ。

 NHKと言えばアナウンサーが実によく勉強しているので感心する。解説の親方よりよっぽど良く勉強している(他局も少しは見習ったらどうだ。相撲に限らずだ。)デーモン小暮閣下がまた実に相撲が好きで、勉強(じゃないか)していて感心する。すばらしい。NHKはもっともっと彼をゲストに呼んでくれ。

 北の富士の解説がいつもえらそうで、ネガティブで、不快だったのだが、最近はなんだかアナウンサーのあしらいが面白くて、これはこれでいいかな、舞の海とのやり取りも良い。

 内館牧子が不快だ。脚本書いてろ。NHKがやくみつるを取り上げるのも実に不快だ。どっちもテレビでのほんの一言や、マスコミが取り上げたほんの少しの断片なのに、そこから感じられる精神が不快だ。それもマスコミが悪意で作ったものなのだろうか?そうじゃないと思う。

 朝青龍は好きだ。ガッツポーズしたって、左利きが左手で手刀を切ったっていいじゃねえか。朝の4時まで飲んでて優勝するんだからすごい。勝負師だよなあ。だが、酔っ払って人を殴っちゃあいけねえ。自分が怪我してるときにサッカーしようが勝手だと思うけれど、ボクサーや、スモーレスラーが人を殴っちゃあ、そりゃあ、犯罪だ。

 大相撲理事選挙のニュースがわからない。今まで、要するに部屋同士の談合で選挙なんて形式だった、と言うのはわかる。だが、貴乃花は何をどう変えようとして立候補したんだ?どうも何もないらしい。何もなくて立候補するのと、議論もなく無風選挙と、ははは、どっちがより悪いんだろう?

 「日本」は「にっぽん」「にほん」どちらでも読めるし、時と場合によって使い分けているようだ。僕の知る限り「日本共産党」と「日本相撲協会」は「にっぽん」でなく「にほん」と読むことに決まっているそうだ。
                                                2010.01.30






累進資本税を!

 非常に単純化して言えば、駄菓子屋のおばちゃん(じゃなくてもいいけど)が1000人に10円の駄菓子を売っても1万円、もうけは1000円もないかも。
 一方1億円の伝票を書くだけで3000万のもうけということもあるだろう。だから累進課税、累進資産税こそが平等なのだ。消費税は原理的に不平等。
 (これはけっしてシロート考えではない)
(2016年4月13日)








価値観の激変

 よのなかすべて変わったと言うことは、、、と圓生がよくまくらで言っていたが、それにしてもあきれかえることばかりだ。
 ラジオを聞いていたら「まあ!おとうさんとおかあさんもなんとか(ってのはなんと!パチンコ屋なのだ!)で知り合ったのよ」とコマーシャルで言ってい る。自分の娘に自分たちはパチンコ屋で知り合った仲だと言える感覚、言ってもいいと思ってるということにあきれかえる。パチンコ屋に行くことはもちろん犯 罪じゃあないが、普通の市民にとってちょっと後ろめたいくらいのことと思うのだが、いまや、そうでもないらしい。
 もっとすごいのは美容整形外科のコマーシャルだ。すごい。町行く美女なのかなあ、女に「しょうなんですか?」「しょうなんです」と、湘南美容クリニック(って、書いちゃったよ。でもいいだろう?べつに。)で整形したことを、自慢?させている。すごい。整形したことはそれこそ絶対秘密なことじゃないのかあ。ぼくには整形は顔からしてウソですと言ってることだと思うのだが。だいたい、町行く人の顔があそこで整形したってすぐわかる、それが否定的に語られないと言うことがすごい。整形してみなおなじようなあそこの整形顔になってるってことじゃないの?べつに否定するようなことじゃないと言っているということか。まったく世も末だ。
 今度は、東京新聞のコマーシャルで「本当のことを知りたいから東京新聞」。すごい。つまり他は本当のことが書いてないのだ。いや実際本当に東京新聞くらいしか本当のことが書いてない。NHKだってウソばかり(というか、取り上げるべきことはなんにも伝えてない)だ。まったく世も末だよ。
(2016年4月10日)








著作権のこと

 今、日本の著作権の保護期間は50年のままなのだろうか。
 欧米の多くが70年になっていると聞くと、日本も当然そうすべきだという気もする。だがその前、長いこと「死後50年」だったのだが、もうじきディズニーの死後50年だ、と言うので、アメリカで圧力がかかり、「死後70年」に法改正された、と聞くと、考えてしまう。アメリカは世界中から著作権料をむさぼり取っているのだろう。(そもそも「死後50年」に決まった時もディズニーがらみらしいことを聞いたような気がするが、確かめてない)それにしても、この話、アメリカの自分勝手なところがよく出ている話だ。あきれかえり、ますますアメリカが嫌いになる。

 作家、漫画家がニュースに出ていたが、彼らは自分が死んだ50年も70年も後まで著作権料を取りたいのか?じゃあ、70年たったら、もういらないのか?
 著作権というの著作権料のことばかりになってしまうが、もっと言うべき事があるんじゃないのか?

 たしか、三井住友銀行のCMなのだが、「ローマの休日」(作品が作られて51年経ったのかな?)の映像を使って、オードリー・ヘップバーンが吹き替えで、「今度の休日、三井住友銀行に行きましょうよ」みたいなことを言うのだ。全然ファンでもなんでもないのだが、怒り狂い、あきれてしまう。この銀行は絶対利用しないし、信用しない。
 著作権が切れると言うことは、こんな事までされてしまうことなのか?このCMはどう考えても作品に対する冒涜じゃないのか?著作物の尊厳というものは、70年経とうが、100万年経とうが、保護すべきじゃないのか。作家、漫画家は、こんなふうに作品を使うことは永久に許されないのだ、と叫んで欲しい。
 もっとも作品が発表され、公(おおやけ)にされると言うことは、基本的に誰にでも読まれ、あるいは下手くそに演奏され、あるいは時に、とんちんかんな批判をされてしまうと言うことでもあるのだろう。作品が世に出た瞬間から、パロディーにしたり、からかったり、あるいは編曲したりすることそのものを禁止することは出来ないことなのではないだろうか、とも思う。
 確かに微妙だけれど、さっき書いたことと決して矛盾していないと信じるのだが、、、

(2006年9月、2017年8月改訂)





書くことがない

 どういうわけかPTAに原稿を頼まれてしまった。お題が「好きな言葉」というのだが、うーん、困った、書くことがない。
 いや、好きな言葉がない、というわけではない。いろいろある。
 たとえば、「地獄への道は善意で敷きつめられている」(レーニン?)とか、あるいはいや、「無邪気」で敷きつめられているんだ、とか、
 あるいは、
「俺の一番好きなのは、うなぎの蒲焼きと他人(ひと)の悪口だ」(誰だったか、江戸時代の学者だったはずだが、、、)とか、(^^;)
 でも、PTAの原稿だからなあ。書くことがない。何を書こう?
(2008年10月)




「これは何ですか?」


 聞くともなしに聞いていたら、男子高校生、相当英語が苦手らしい。

 中一の1学期中間のときにはもう落ちこぼれていたからなあ。
 だって、最初のテストって、アルファベット全部書け、とか、そんなんじゃない?
 だから、40点だったかなあ?
 そりゃあひでえなあ。
 英語なんて意味がわかんねえよなあ、びー動詞って何よ?(こりゃあ確かにたいへんだ)
 「これは何ですか?」って、、、、見りゃあわかるって。

 思わず笑ってしまった。たしかに、これは何ですか?これはペンです。って絶対あり得ない会話だよなあ。

 大学に入った時、NHKのドイツ語講座の4月号だけ (^^ゞは買った。
 その会話のシチュエーションが面白くて、宇宙人が地球に降りてくるのだ。宇宙人とだったら、「私は人間です」「私は男の子です」「私はドイツ語を勉強しています」「これはペンです。」など、あり得ない会話がすべて意味のある会話になるのだ。笑ってしまった。うまいなあ。
 金田一京助だったか、アイヌ語を研究する話が小学校の、確か道徳の教科書に載っていた。
 アイヌの集落に行ったのだが、警戒されているのか、大人は相手にしてくれない。そのうちやっと子どもは少し関心を示してくれた。言葉は全然わからない。ふと思いついて紙に犬だか、なんだか絵を描いたら相手は子どものこと、「いぬ!いぬ!」と(たぶん)言ってくれる。これで糸口がつかめたが、そのうち行き詰まってしまった。(そんなに絵が得意じゃなかったのかもね。)そこで、紙にぐちゃぐちゃと書いてみたら、こどもが口々に言っている言葉はもちろん「なに?」だろう。そこで、そこらにあるものを、絵に書けないものも、こちらから「なに?」聞いていって、次々とボキャブラリーを増やしていった、と言うのだ。

 思わず昔の事を思い出してしまった。
(2013年1月)




















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